HARDY BROTHERS 第2次世界大戦の前後の変遷
2010-05-05


1940年、二代目社長ローレンス R.ハーディー及びフレッド、アレンは次第に入手難になってきた素材の確保に追われる様になった。 まず日本からのガット素材や絹糸の入荷が停止した。 さらに鋼材の入荷が著しく厳しい状態にせまられ、またアルミニューム素材は軍用機などの軍需産業に優先される事になっていった。

1942年に入ると、さらに素材供給が枯渇し工場の一部の操業停止に追い込まれる結果となった。 WILLIAM,JIMの両名は相次いで召集され、戦地へと赴いた。 後にWILLIAMはドイツ軍の捕虜となり、終戦まぎわの解放まで帰国出来なかった。

1942年の秋、ドイツ軍のロンドン爆撃により、PALL MALLの店舗が破壊され、シティー店のみの営業となったが、それでもジョンブル精神果敢な英国人は週末の釣りを楽しむ為か、顧客は戦火をのがれて店に訪れた。 しかしほとんどのリールは底をついており需要に応じ切れなかったという。
ローレンスは、この窮状をしのぐ手段として以前より広告や、技術交換などで交流があったロールスロイス社に応援を仰ぎ、HARDYの旋盤技術を生かして、同社の下請け作業に従事することになった。 当時ロールスロイス社は軍用機のエンジンなどの生産をおこなっていた関係で、必要部品などの製造にHARDYの応援は納期を短縮出来、終戦までこの関係が継続された。 ただロールスロイス社の事情で、この関係は公表はされていない。

1945年春、欧州戦線はほぼ終戦を迎えドイツ軍の崩壊とともに、多くの将兵が復員し、HARDYの工場も落ち着きを取り戻すが、あいかわらず素材供給の道が見当たらず、一時は開店休業の状態となった。 幸いに米国で開発されたナイロンにより絹糸にかわるガットの生産や、アルミニュームの代用としてエボナイトなどを素材にしたフライボックスなどが生産される事になった。 パラコナについては、戦前の素材確保により戦後も製造の再開が出来たが、1960年代後半から素材の確保がベトナム戦争の為難しくなっていく。 1951年のPALL MALL店の再開により、HARDYは戦後の時代を迎えるが、米国などでは既にグラスファイバーロッドが大きく展開しており、自社製造製品だけでの商売は次第に難しくなり、小売店として他社ブランドをふくめた総合釣り具店に変化を遂げていく。 WILLIAMは復員後、既に老齢となってきたローレンスを助けて副社長として采配をふるう事となり、JAMESはマーケッテイングと技術担当重役に就任する。 甥のフランクも同社の重役として就任し、HARDY一族3代目を形成してゆく事となる。
[荒井利治作品集]
[HardyBrothers]

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